自分のオリジナルの格言をつくろうとして一切(いっさい)という
言葉を使ったのでそれに関連した話です。
一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)という禅語があります。
「一切」とは、すべての現象、存在という意味。
「唯」とは、「それだけ」のこと。唯一というと「一つだけ」という意味です。
一切唯心造...「すべての現象・存在は、心で作られているだけのことだ。。。。。」
つまり私たちの周囲のすべての現象や存在は「心」がどう感じているかであり、
「心」が造り出したものにすぎないという意味です。
すなわち、あらゆる存在は心より現れ出たものでしかない。
哲学的にはなるが、「それがある」ということは、「心で認識したものがそこに存在する」ということ。
たとえば飢えているときに、海で「うに」を目にしても食文化としての認識があれば、
食べ物に見えるがそうでなければ、とげの生えた物体(生物)でしかない。
んっ??本質的には、我思うゆえに我ありbyデカルトと同じ?
存在の有無とも理解できることではありますが、
ここではちょっと違う趣旨で話たいので例えとしては妥当ではなかったですね。。。
ちょっと例えを変えよう、もし自分にとって「悪い現象」が起こっているとしたら、
それは、自分の心の動きで「悪い現象」となっているに過ぎないということです。
以前、ジェームズ・アレン ”「原因」と「結果」法則 ”を紹介したときに書いたことですが
~あなたの周囲で発生する、あなたの優しさや心の平和を脅かす物事のすべてがあなたの進歩に不可欠なものであり、それを通じてのみあなたは学び、成長し、成熟することができるのです。
もしあなたが環境が悪いと感じているとしたら、本当に悪いのはあなた自身です。~
この言葉は、まさしく「万象皆師」&「一切唯心造」を表していて、後半部分は、
自分の周りに起こる「良いこと」「悪いこと」は全て自分自身の「心」に起こっていることに過ぎないと言っている。。。。
「きれい」・「きたない」、「愛しい」・「憎い」は心で思っていることにすぎない。
と言われてもピンとこないかもしれませんが?
以下のような例なら、みなさんも既に実感していることだと思います。
たとえば、小学生や中学生の頃、深刻に思っていた悩み事を思い返してみましょう。。。。
その当時は重大な出来事であったかもしれない。。。
ですが、今思い返せば、取るに足らないことばかり。。。ということはないですか?
だから、今「大変だ!」なんて思っていることがあれば、
それは、勝手に自分の心の中で「大事(おおごと)」にしてしまってはいないか?
と客観的に自分を見るようにするため、
まずは深呼吸して冷静に見つめ治すことを心がけるようにすることをお勧めします。。。
あなたも、いままで身に覚えがないようなことで批難されたり。
どうでもいいようなことで
言いがかりを付けられたりした経験はありますよね?
それらの中には、
目に見える事実として発生はしていないもので、
相手側の心の中でのみ発生しているということがあります。
いわゆる軽度の被害妄想。。。。
ものごとに対してどのような感情になるかは個人の自由ですが、
怒りを他人にぶつけるようなことはしてはならないでしょう。
その怒りは、本人が「怒り」という感情をとることを決めたのであるし、
そして怒りの度合いは心の中で勝手に作っているのだから。
ですから、
少なくとも感情のコントロールは自分自身で解決するように
心がけることが大事なのではないでしょうか?
せめて他人や周りにぶつけるようなことは、ないようにしたいものです。
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